セクハラと自分の劣等感と

俺は女の子に幸せになってほしい。


という思いが最上位にあるように自分の中での整合性を確保していたい。なぜなら女の子が好きだから。さらに言えば、自分のちんこがどうしようもなく女の子を求めているのをなんか女の子が好きという言葉で表現していたいから。ちんこが女の子を求めるのは、それが平均的な同世代よりも制御に難があるものなのは、よくいう承認欲求の問題。俺は普通にフラットに人と接して自分を受け入れてもらうことができないから、ちんこ一本勝負で女の子に受け入れてほしい。理性の対極としての性欲が強いというよりも情けなくてみじめで救いのない女の子への欲求の汚らしさ下卑さを直視していたら死んでしまう(実際に死んだほうが良いという話はおいておいて)。四六時中女の子が欲しくてほしくて自分のものにしたくて専有したくてどうしようもないのを出来る限り平易で劣等感を感じないように認識しようとすれば女の子が好きという言葉で捉える他になくて、それをなんかちょっと偽善的に表現するならば女の子に幸せになってほしいという表現が或いは可能なのかもしれない。そしてこの飛躍には女の子を幸せにするのは自分ではない可能性を含有して、もちろんすべての女の子を幸せにするのは俺ではないどこかの誰かだってわかってて、それが自分の欲求を直接女の子に向けずに住むようになる一助になる一方で、自分の希望の持てなさ未来の真っ暗さを意識させて苦しくさせるものでもある。だけど俺の未来に女の子とのポジティブな接点は考えられないと思っておくほうが明白に正確で、ならばそれを受け入れるしかなくて、でも容易には受け入れられなくて受け入れたくなくて、形を整えないままに自分の押し付けるように言い聞かせている日々。

俺は女の子に幸せになってほしい。というのは女の子が傷つかずにいてほしい、ということでもあって、それは自分がかつて女の子を傷つけたからで、いつ思い出しても俺が最低で最悪で、苦い過去の反映でもある。女の子に素敵な人に見初められて幸せになってほしくて、俺みたいな変な害虫から保護されていてほしい。つまりそうして俺が女の子を傷つけた事実がなくなればいいという自分勝手で無理な願望であって。女の子を傷つけるようなやつは死んでほしいし殺されてほしい。俺も誰かに殺してほしい。自分では死ねなかったから。